このウェブサイトは、BOaTというバンドについて調べて整理したページがメインコンテンツの一つだ。今となってはバンドを知ったきっかけは忘れたが、“RORO” を始めとする音源を聴きまくっているうちに、1990年代後半から2001年ごろにかけて活動していた彼らについての情報を調べるようになっていた。

GoogleでBOaTを検索すると、アルバムのディスクレビューやバンドの概要についての記事がヒットする。noteやXを探ってみると、当時を知る人の記憶の断片が見つかることもある。1 だが、調べていくうちに、今の視点で語られた過去ではなく、リアルタイムで下北沢のライブハウスに通っていた誰かの、当時の声を知りたくなった。

Wikipediaの BOATの項目 の脚注から フジテレビの古いページ 2 を見つけ、リンク切れのURL3 をInternet Archiveで開くと、BOaTの公式サイトのアーカイブが現れた。

メンバーが更新していたと思われるサイトから、気の向くままにリンクを辿っていると、名前も知らない誰かのページに辿り着いた。もはや当初の目的からは完全に脱線してしまっているが、気づけば無心にページを巡回していた。

アーカイブされた古のページを、検索ではなくリンクを辿って漂流する。この記事ではその行為を勝手に Hyperdrifting と呼ぶことにする。

Hyperdriftingの入り口

探索の糸口を探すのは思いの外難しい。Internet Archiveが主な舞台になるが4、全文検索はできない。「boat natsumen」で検索するようなことをすれば辛うじて公式サイトがヒットするが、Googleのようにページ内容を横断的に探すことはできない。

過去の書籍や雑誌から興味のあるウェブサイトのURLを探しだしてみるのも良い5が、2000年ごろの(インディーズ)音楽に関する入り口として、ライブハウスのサイトをいくつか紹介したい。

下のようなリンク集からスタートして見てもよいだろう。上に掲載されていないライブハウスへのリンクも載っている。

縁側のある場所

さて、興味のあるページは見つかっただろうか。思いがけないサイトに行き着くまで掲示板やリンク集を行き来しても良いし、同じサイトのキャプチャ時点の日付を変えて、時間の経過とともに変化していくサイトの姿を眺めるのも面白い。

ぜひ、当時の個人サイトを探してみて欲しい。日記・レビュー・リンク集が渾然一体になったサイトは、書いた本人は「音楽サイト」のつもりでも、読む側からするとその人の人生の断片が垣間見える私的空間だ。

日記には、就職した、引っ越した、バンドが解散した、という痕跡が更新履歴の行間に残っている。BBSを覗いてみると、管理人と常連っぽいメンバー、他のサイトの宣伝など、特にトピックもなく言葉を交わしている。他人の家にお邪魔させていただくような感覚がそこにはある。日付を動かしてみると、デザインが変わり、メニューが増え、ある日を境に更新が止まる。サイトの変遷を辿ることは、そこに関わった人の時間を辿ることでもある。

Wayback Machineで見るウェブは断片的で不完全だ。画像も含めて完全な形で保存されているサイトの方が珍しい。見たいページがリンク切れになっていることは当たり前だし、掲示板の「次へ」は動かない。保存されているサイトも、断面として残っているのは全体のごく一部である。頻繁に更新されるライブハウスのページを網羅することは叶わないし、2002年のページからリンクを飛んだら2001年だった、といったような事象はしばしば発生する。

現代の感覚で考える不便としか言いようがないが、そのプリミティブさのせいかなぜか熱中してしまう。リンク切れと断片の中で、辛うじて開けるページだけを読む。情報が多すぎて何も残らない現代のウェブとは違う密度がそこにある。

実際に巡り合った個人サイトはあえてここには紹介しないことにしておく。ひっそりと存在していたものを表層に引き上げることが、果たして良いことなのか確信が持てない。6

古のウェブへの関心

こうした感覚は自分だけのものではないらしい。

Xで「古のインターネット探訪」というアカウント(@memoriesofhp)を運営している人がいる。インターネット黎明期から普及期にかけての懐かしいウェブサイトをスクリーンショット付きで紹介し、当時のFlashサイトのアーカイブや、88×31ピクセルのリンクバナーを集めた保管庫も公開している。保存し、整理し、展示する。学芸員のような役割だ。

海外にも似た動きがある。Kyle Drakeにより2013年に “手作りのウェブを作ることができる場所” として Neocities が設立された。 Parimal Satyal が2020年に書いたエッセイ “Rediscovering the Small Web” は、手作りのHTMLページの美徳を説き、アルゴリズムに支配された今日のウェブとの違いを論じた。IndieWeb運動も同じ問題意識を持つ。アルゴリズムのフィード、データ収集、SNSのパフォーマンス的な性質に疲れた人々が、より人間的なウェブを自分たちで作ろうとしている。

ノスタルジアという言葉では少し足りない気もする。New YorkerのKyle Chaykaは「デジタルノスタルジア」という概念を提唱し、GeoCitiesのような場所への郷愁を、よりシンプルで人間的なデジタルライフへの欲求として定義した。かつてのインターネットで最も失われたのは「自分が知っているコミュニティとつながっている感覚」だと。

ただ、これらの動きとHyperdriftingは少し違う。保存する人、作り直す人、論じる人——彼らは古いウェブに何らかの意味を与えようとしている。Hyperdriftingはもう少し不純で、目的がない。地図も持たず、記録もせず、ただ漂う。その不純さが、むしろあの時代のウェブの空気に近い気がしている。

アルゴリズムの外側で

Hyperdriftingがなぜ面白いのか、構造的に考えてみたい。

YouTubeは次の動画を提案し、Spotifyは次の曲を流す。広告はブラウジング履歴から推定され、AIは会話履歴をもとに答えを返す。現代のウェブ体験のほとんどは、自分の行動履歴を学習したアルゴリズムが「次」を決める構造になっている。

自分の好みに合ったものを次々に出してくれるアルゴリズムの効率性は、自分のプロファイルを強化する方向にしか働かない。「あなたはこういう人間だ」という像を固めていく。セレンディピティという言葉があるが、今やアルゴリズムに回収されつつある。思わぬ発見すら設計されている。Hyperdriftingはその逆だ。経路が記録されず、完全に自分の判断でリンクの先に飛んでいくことを強制される。

消えていくウェブの記憶

個人サイトは静かに消え、ほとんど顧みられない。更新が止まってもしばらくは惰性で残るが、ホスティングサービスのサービス終了と運命を共にする。

一時代を築いたジオシティーズがサービスを終えたのはちょっとした昔の2019年で、最近では2025年6月にFC2WEBをはじめとする11の無料ホームページサービスが一斉にサービスを終了した。7

個人サイトのフッターに書かれていた運営者の思い、リンク集が形成していたコミュニティの地図、更新が止まった日の記録——形式化されていない文脈は顧みられない。残っているのは、独自ドメインで運営されていたサイト、あるいはInternet Archiveにクロールされていたページだけだ。

薄まり続けるインターネット

インターネットで人と繋がることは、かつてより格段に簡単になった。それなのに、画面の向こうの相手が本当に存在しているのか、疑わしくなることがある。

私が見ている「表層のインターネット」はAIにより薄まりつつある。 多くの人の興味、関心がYouTubeやInstagramといったSNSに移りつつあるためか、広告で埋め尽くされた商業的なページに個人ページが追いやられてしまう傾向はあったものの、AIの台頭により拍車がかかっていると感じる。

Googleを使うと、検索ワードによってはAIにより自動生成されたと思われるブログが多数ヒットする。個人のブログのように似せて書かれているような記事も多いが、ページの作成速度が人間のそれではない。

Xのタイムラインのうち、何%が人間が本当に書いた物だろうか?バズった投稿には無数のインプレゾンビのリプライがぶら下がっている。人間の書き込みのように偽装された、注目を集めるためだけに生成された言葉だ。

YouTubeでたまたま見つけた1985年のニューエイジ/エレクトロニックアルバムのアーカイブ動画の説明欄には、「NOT MADE WITH AI. STOP ASKING.」8 と書かれている。

背景は把握していないが、AIによる数の暴力で大量のコンテンツが供給される世界9においては、「当時の雰囲気」が本物なのか、AIによる再現なのか疑心暗鬼になる人が多いと言うことなのだろうか。10 人間の営みは自動生成されたコンテンツの中に埋没しつつある。

翻って、当時の個人サイトの掲示板を思い出す。名前も顔も知らない。アイコンもない。テキストだけのやりとりだ。それなのに、人の気配がある。あの頃のインターネットには「バズる」という概念が希薄だった。個人サイトを作ることは一部の例外を除き収益化とは無縁だったように思う。

表層化されていない情報を求めて

情報には、見えやすさの層がある。最も表層にあるのは、Googleの検索上位に並ぶ記事だ。Wikipedia、音楽メディアのレビュー、noteやXに書かれた誰かの記憶。キーワードを入力すれば、整理された情報が即座に手に入る。

その次ぐらいにあるのがHyperdriftingの領域だろう。ウェブ上に存在したが、検索に引っかからず、消え去っていったページたち。今も活動を続けている著名なアーティストであれば熱心なファンがファンサイトを維持し続けてくれていることもあるが、解散してしまったバンド、活動を休止してしまったアーティストの場合は新しい情報がなく先細りになるサイトも少なくない。過去のウェブサイトには、当時の熱量が残っている。

視点をインターネット外に向けてみれば、まだ掘り進められる。国会図書館やメルカリを使って音楽雑誌のバックナンバーを探してみるのも面白い。全文検索はできないのでこちらも当たりをつけて目次をめくり、自分の足と目で探すしかない。私がBOaTを調べるために国会図書館へ行ったのも、この層を掘りに行く行為だった。バンドのインタビューは読み応えがあった。リリース当時の評価も、そこで初めて実感を持って理解できた。

もう一段深いところに、エフェメラがある。ライブのチラシ、フリーペーパー、会場で手渡されたフライヤー、当時のセットリストの紙。デジタル化されていないそれらは、検索はもちろん、Internet Archiveにも存在しないし、国会図書館すら所蔵してないだろう。誰かの部屋の段ボール箱か、あるいはとっくに捨てられたか。Googleからは決して見つけられないBOaTが出演したライブのチラシに出会いたい。

物理の棚から、デジタルの辺境まで

音源にもまた、アクセスの層がある。最も表層にあるのは、SpotifyやYouTubeで配信されている音楽だ。検索すれば即座に聴ける。TikTokでバズった曲も、アルゴリズムが推薦する曲も、ここに含まれる。

その次にあるのが、配信されていない音楽だ。CDやアナログ盤、カセットテープでしかリリースされていない作品。あるいは、かつては配信されていたが今は削除され、廃盤になった音源。ストリーミング全盛の時代において、物理メディアでしか聴けない音楽は、それだけで一段深い層に沈んでいる。

少し前であれば、TSUTAYAのレンタルCDコーナーがその入り口だった。私自身、地元のレンタルショップ(正確にはTSUTAYAとは別のフランチャイズだった)で、棚に並ぶアルバムを眺めながら次に聴く音楽を探していた。気づけばストリーミングサービスの普及によってレンタルCDの文化は完全に解体され、渋谷のTSUTAYAも、神保町のジャニスも、そして地元のCDレンタルコーナーも跡形もなく消えていたが。

Bandcamp、SoundCloud, YouTubeをはじめとする配信プラットフォームの向上により、現代のオブスキュアな新作に出会うハードルは下がっているが、過去の、配信されていない音源を掘るには、物理的に動くしかない。新たな境地を切り開くという意味で私が興味を惹かれたディガーについて、(私自身との交流はないが)勝手に紹介することを許して欲しい。

オブスキュアな音源の発掘・キュレーションという意味では、門脇綱生/猫街まろん氏の活動は外せない。アナログデジタル問わず、膨大な音源を掘り起こし、プレイリストとして文脈を整理し、体系化する壮大な試みがそこにある。

lightmellowbu(ライトメロウ部)。インターネット上に情報がないような80年代後半から2000年代半ばの知られざる作品をブックオフから掘り起こしブログやZINEでレビューを発表している。オブスキュア・シティポップ・ディスクガイドとして書籍にもなっている。部員の1人のハタ氏の「90年代シティポップ記録簿」を読むと自分がいかに知名度だけで音源を探していたのか思い知らされる。

リユースショップで100円で投げ売りされているCDに着目してディグを続けるデラ氏の存在にも触れたい。玉石混交という点ではブックオフを凌ぐだろう。その中に奇跡があると言っている。

さらに深い層を掘るのが、数の子ミュージックメイト氏だ。町内カラオケのカセット、合唱コンクールの録音、身内だけに配られたデモテープ——記録する意図すらなかった「身内音楽」を収集・研究する。届ける相手を想定していない場所にこそ純度がある、という直感を、氏は真剣に受け取っている。

四者に共通しているのは、まだ名前のついていない価値を、自分の嗅覚で見つけに行くという姿勢だ。Rate Your Musicのランキングも、Spotifyのディスカバリーウィークリーも、誰かが価値を認めたものを届けてくれる。それはそれで素晴らしい。でも彼らが掘っているのは、まだ誰も価値を認めていない場所だ。そこに光を当てることが、新しいジャンルや文脈を生み出すことにもなる。

漂流が地図になるとき

Hyperdriftingとディグは、根っこでつながっている。過去のウェブサイトを辿っていると、今のウェブからは見えなくなってしまったアーティスト同士の繋がりが浮かび上がることがある。そしてその文脈が、実際に音源を探しに行くディグの道筋になる。

BOaTの楽曲に付けられた「LISTENING NUMBER」を調べていくと、同じ番号体系を共有していたアーティストたちの存在が見えてきた。それはアルゴリズムが「あなたへのおすすめ」として出してくる関連アーティストとは全く異なる、有機的なつながりだった。

LISTENING NUMBERについて調べた内容を記事にした数ヶ月後、Rate Your Musicで「LISTENING NUMBERS」というリストを作っている人を見つけた。インターネットの片隅で、誰にも知られずに、同じ穴を掘っている人がいる偶然の一致に、妙な親近感を覚えた。

当時の文脈の中で自然に結ばれていたネットワークが、ウェブの断片から再構成される。公式サイトのリンク集、掲示板の書き込み、ライブハウスのフライヤー。それらを繋ぎ合わせていくと、シーンの地図が浮かび上がってくる。そして次は、その地図に載っているアーティストの音源を探しに行く番だ。

メルカリで当時のCDを探す。国会図書館で音楽雑誌のバックナンバーを漁る。メンバーがその後に出した音源をSpotifyで聴く。Hyperdriftingで掘り起こした文脈が、ディグの羅針盤になる。リンク集に載っていたバンド名、掲示板で誰かが褒めていたアルバム、ライブの対バン相手——それらが全て、次に聴くべき音源の候補になる。

表層化されていない文脈を掘り起こし、それを手がかりに音源を探す。両方を行き来すると、当時のシーンが立体的に見えてくる。

最後に:漂流は続く

ウェブサイトは、思っているよりずっと早く消える。ホスティングサービスが終了すれば一夜にして消え、ドメインの更新を忘れれば跡形もなくなる。Internet Archiveに残っているのは、本来消えているはずのものが奇跡的に切り取られた断片だ。Hyperdriftingをしていると、そのことを強く意識させられる。リンク切れのたびに、かつてそこに何かがあったことを想像する。すると普段のブラウジングも違って見えてくる——今読んでいるこのページも、いつか消えるのだと。

Hyperdriftingも、ディグも、本質は同じところにある。地図を持たずに歩くことだ。どこに辿り着くかわからないしハズレも多い。それでもやめられないのは、アルゴリズムの外側にある出会いを追い求めているからだ。掲示板の書き込みは途中で途切れ、画像は読み込まれず、次のページへのリンクは死んでいる。不完全で、非効率で、偶然に支配されている。でもその偶然性こそが、この行為の核心だ。誰かが20年前に夜中に書いた掲示板の一行、忘れ去られたリンク集、更新が止まった日記——それらは誰のためでもなく、ただそこにある。その「誰のためでもなさ」が、逆説的に、誰にでも開かれている。

その人が今どこで何をしているかは分からない。でもあの瞬間、確かにそこに人がいた。儚いからこそ、残っているものの息遣いには趣がある。その一瞬の回路を開くのが、Hyperdriftingという行為だ。名前も知らない誰かの痕跡を辿るために、今後もInternet Archiveを漂い続けるだろう。まだ消えていないうちに。


  1. 例えば、[4本目]下北沢に居着いた決定的な出来事は、BOaTというバンドとの出会い|ymkx など ↩︎

  2. 20年以上にわたってWebサイトが当時のまま維持されている。願わくば貴重な文化的資産をして維持されていってほしい。 ↩︎

  3. http://www.bekkoame.ne.jp/~ketsu/boat/index.html ↩︎

  4. archive.today, ウェブ魚拓 のようなウェブアーカイブサービスや、国会図書館が行う 国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP) のようなサービスもあり、一般的にはInternet Archiveに限らない。しかしながら、収集している資料の網羅性や量といった側面で考えると、Internet Archiveが飛び抜けていることは間違い無いだろう。Googleのキャッシュ機能は2024年に廃止された。 ↩︎

  5. 少し前であれば、5ch(旧2ch)の過去ログも良質な情報源だった。最近は5ch自体の運営が不安定な状況が続いており、2026年3月には5ch.netのドメインが停止されている。 「5ちゃんねる」のドメイン「5ch.net」永久停止へ 動物虐待コンテンツ放置で - ITmedia NEWS 以前から過去ログの閲覧は不安定だったように思う。 ↩︎

  6. とはいえ、BOaT関連の記事を作る際にはいくつか個人サイトを参照させてもらっている。 ↩︎

  7. インターネット文化遺産の危機〜2025年大規模サービス終了がもたらすデジタルアーカイブの喪失〜|江崎びす子 ↩︎

  8. 2014年を日付とする記事が存在し、少なくとも2017年時点でInternet Archiveによるキャプチャが存在するので、書かれている通りAI生成ではないと思われる。 https://web.archive.org/web/20170328102450/https://dieordiy2.blogspot.com/2014/01/george-garside-jester-unreleased.html ↩︎

  9. 私が気づいていないだけで、AIによる「偽装」はすでに十分な広がりを見せているのだろう。Spotifyをはじめとするストリーミングサービスでは、ロイヤリティ収益を目的とした “Streaming farm” が、大量の楽曲をAIで生成し、人間のアーティストの楽曲に混じって配信させている という問題が指摘されている。Spotifyもその対応に追われており、プラットフォーム側がAIコンテンツのポリシーを明文化せざるを得ない状況になっている。 ↩︎

  10. AIを透明な形で活用し、新たな試聴体験を届けようとしている試みもある。 「夜明けのジュークボックス」というYouTubeチャンネルは、最新の楽曲を昭和歌謡風にアレンジして届けるチャンネル。AIを解析ツールとして活用しつつ、楽曲構造の再構築や時代考証、アナログ録音特有の質感の再現は制作者が手がけている。夜に駆ける / YOASOBI(1982年) が本当に1982年にリリースされたと勘違いする人はいないだろう。AIに人間の創造性を代替させるのではなく、AIを用いて表現の幅を広げる方法には素直に面白さを感じる。 ↩︎